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名所トップ10

最も興味深い名所のご紹介

名所トップ10

1.城壁と要塞
ドゥブロヴニクで、観光客にとって最大の魅力の城壁は・・・

五つの要塞、16の塔と堡塁をもつ、長さ1940メートルの、ヨーロッパでは原形が最もよく保たれている要塞建造物です。一年中観光客に開放されている、 屋外にある興味深い博物館ともいえるこの城壁には、入口が二か所あります。東側の聖ルカ教会の所と、ピレ門から旧市街に入るとすぐの聖救世主教会と海洋博 物館のある、聖イワン要塞の所です。城壁を散歩すれば、ドゥブロヴニク共和国の防衛に使われた、いくつかの印象的な要塞を見ることができます。ミンチェッ タ、ボカル、聖イワン、そして独立して立っている西側のロヴリエナッツと東側のレヴェリンです。ミンチェッタ要塞は、町の最も高い所にあり、町の北側を 守っていました。ミンチェッタは、ドゥブロヴニクの防衛の象徴で、そこには私達の祖国の旗が、また夏にはリベルタス(自由)の旗がはためいています。南西 にあるボカル要塞は、ロヴリエナッツと向かい合って城壁の角に立っていて、ズヴィエズダンとも呼ばれていますが、西側の小さな港、およびピレの堀と橋を警 備する目的で、15世紀に建設されました。現在では、この地方のいろいろな石の破片を集めた博物館になっています。聖イワン要塞は、1346年に築かれた 桟橋の、四角いものとしては初めての塔で、南東で町の港を守っていました。また、昔はここから巻き上げ機で港の鎖を引っ張っていました。この要塞の一階は 水族館で、二階と三階は海洋博物館になっています。この下は、ポルポレラという名前で知られている灯台のある大きな桟橋で、恋人達の会う場所であり、旧市 街の住民の散歩道、そして海水浴場でもあります。ポルポレラからは、町の東門の所にある、城壁から離れて立っているレヴェリン要塞が見えます。

古い石の吊り上げ橋が、印象的な要塞と町を、内陸側の地域とつなぎます。三方を掘で囲まれ、もう一方は海という要塞は、ドゥブロヴニクを攻めにくくしてい ました。もっと早くから存在していたにもかかわらず、レヴェリンが現在の規模で建てられたのは、16世紀です。この要塞の中側とテラスでは、ドゥブロヴニ ク交響楽団の演奏や、ドゥブロヴニク・サマー・フェスティヴァルの演劇が行われます。

2.ロヴリエナッツ

旧市街の西、37メートルの高さの崖の上にあるロヴリエナッツ要塞・・・

これは、ドゥブロヴニクの存続と自由の象徴で、町と西のピレ門を守っていました。入口の上の方には、有名な一文が書かれています。NON BENE PRO TOTO LIBERTAS VENDITUR AURO(世界中の富をもっても、自由は売ることができない)と。この要塞のことが初めて公文書に出てくるのは、1301年のことですが、その建設の開始 は、それより前であると考えられています。ロヴリエナッツは今日、ドゥブロヴニク・サマー・フェスティヴァルの、特にウィリアム・シェークスピアの作品が 上演される舞台として知られています。不幸なデンマーク王子の役を演じた有名な俳優には、ラデ・シェルベジア・ダニエル・デイ・ルイス、ゴーラン・ヴィ シュニッチなどがいます。

3.ストラドゥン

昔、ドゥブロヴニクの住民が町に入るのには、東のプロッチェと西のピレにある二つの門を使いました。

ここでは、古い吊り上げ橋が上がったり下がったりして、夜の間よそ者の通行を防いでいました。夏、衣装を着た町の警備員が顔を合わせるピレ門を通ると、プ ラッツァ、またはストラドゥンと呼ばれる町のメインストリートに出ます。市内にある住民のお気に入りの遊歩道であり、人々が集まって来る場所であり、庶民 のお祝いやパレードの場所である、町で最も広く美しい道ストラドゥンは、旧市街を北と南に分けている、商業の動脈です。この道は、かつて小島ラヴェの集落 と本土の集落を分けていた浅い海峡が埋め立てられたことにより、11世紀の終わりに生まれました。12世紀の終わり、この二つの集落が町の壁で一つの都市 にまとめられた時、プラッツァ通りは本当の機能を持ちました。「プラッツァ」という名前は、民衆の重要な行事が繰り広げられる場所を意味するラテン語 の"platea communis"から来ているのに対し、もう一つの呼び名「ストラドゥン」は、ヴェネチアからやって来た言葉で、大通りを意味します。ストラドゥンの東 の端に、オノフリオ大噴水があります。この噴水の名前は、15世紀に、ドゥブロヴニクの後背地シュムットからこの石の町に水を引くため、11.7キロの水 道設備を建設したオノフリオ・デラ・カヴァの名前をとってつけられています。オノフリオ・デラ・カヴァは噴水を二つ建設しましたが、小さい方は町の鐘楼の 近くにあります。今日も、時を告げる鐘が鳴り響く夏の暑い日、噴水の水が涼しさを与えてくれます。時計のついた町の鐘楼は、1444年に建てられたもの で、31メートルの高さがあります。1509年、評判の高い鋳造業者イヴァン・ラブリャニンが鐘とバーロ、マーロの銅像を造りました。これらの銅像はその 色が緑のことから、ゼレンツィ(緑色の人達)と呼ばれています。鐘楼のゼレンツィは、毎時、その時刻の数だけ鐘をたたきます。またその三分後にも同じ数を たたき、さらに三十分後にもまた鐘を鳴らします。市の鐘楼とスポンザ宮殿の間に、ルジャと呼ばれる鐘があり、かつてはドゥブロヴニク共和国の議会召集や、 火事、その他の危険を知らせるものでした。ルジャは1463年に建設され、1952年に大改築されました。その左側は、ゴシック・ルネサンス様式の記念建 造物、かつての姿をそのまま残す、町で最も美しい宮殿、スポンザ宮殿です。共和国時代、ここに税関と倉庫が置かれていたため、この宮殿は「ディヴォナ」 (税関を意味する「ドガナ」からきている)とも呼ばれています。税関のほかに、この建物には、国の造幣局と国家金庫、宝物庫が置かれていました。この宮殿 の建設を成し遂げたのは、ドゥブロヴニクの名匠パスコイェ・ミリチェヴィッチです。今日、この建物には、最も重要な文化施設である国家書庫が入っていま す。そこには、12世紀から共和国崩壊までの全ての文書が保管され、その所蔵物において、世界で最も重要な書庫の一つになっています。特に価値のあるもの は、法律、規則集の収集で、またその中でも1272年のドゥブロヴニクの規則について書かれたものでしょう。オルランドの柱は、剣を持った中世の騎士の姿 が美しい柱で、巻き毛で、典型的な謎めいた笑みを浮かべる、ヨーロッパで最も美しい英雄像の一つです。これは、1418年の契約により、ミラノのボニーノ が、地元の職人とともに制作したものです。旗竿にドゥブロヴニク共和国の国旗が、そして今日ではクロアチア共和国の国旗がはためくオルランドの柱は、国家 の象徴です。また、ドゥブロヴニクの守護聖人、聖ヴラホの祭典では、この聖人の姿を描いた旗が、そしてドゥブロヴニク・サマー・フェスティヴァルでは、リ ベルタスの旗がはためきます。

4.教会

ドゥブロヴニクでの滞在が少し長ければ、ミサに行かれては・・・

控え目な光と花々と乳香の香り中、安らぎを見つけることができる、そんな特別な雰囲気のドゥブロヴニクの古く荘厳な教会でのミサへ・・・。それは、この町 の白い石に反射する夏の太陽の光や、観光客の夏の服の派手やかな色とは、正反対の世界です。うだるような暑さの道を歩いてほてった体に、教会の中の涼しさ は心地よいものです。黄色い生蝋の蝋燭に火をつけるだけでもいいかもしれません。ちょうどオルガンの演奏の最中に聖ヴラホ教会に入れば、幸福な気持になれ るかもしれません。日の光が窓のステンドグラスに当たり、その様々な色で、暗い教会の中が生き生きとしてくるかもしれません。
ドゥブロヴニクの守護聖人、聖ヴラホに捧げられたバロック様式の教会は、この聖人のために捧げられた古いロマネスク様式の教会と同じ場所に、1715年、 ヴェネチアの建築家、マリン・グロッペリの設計により建てられました。主祭壇には、15世紀のドゥブロヴニク金細工学校の作品で、銀を塗った高価なゴシッ ク様式の聖ヴラホの像が保存されています。この像は、芸術的価値のほか、記録としての価値もあります。それは、聖人の像が左手に持っている町の縮小モデル を見ると、後の大地震で壊れた建物がよくわかるからなのです。聖ヴラホ教会は、旧市街の中央、オルランドの柱の近くにあります。ストラドゥンが始まるピレ 門とフランシスコ修道院の間に、ドゥブロヴニクを襲った強い地震による崩壊から町を守ってくれた救世主への感謝の印として、1520年、元老院の決議によ り建設された、小さな奉納教会、救世主教会があります。そのことについては、教会の正面に書かれています。この教会は、コルチュラの職人、ペタル・アンド リイッチにより建てられましたが、1667年に起きた大きな地震でも、崩れることなく、もとの形のまま残り、調和のとれたドゥブロヴニクのルネサンス建築 のモデルです。ここは、コンサートや美術品の展覧会の会場としても使われます。1317年に開業した薬局の、1667年の致命的な地震までの記録は、あま り残っていません。最初は、聖職者の規則に従い、病気のフランシスコ会修道士のために設立された修道院の小さな薬局でした。そのうちに、人道的、慈善のた めの目的で、薬局は、修道院の狭い世界の壁を破り、市民のための一般な薬局になりました。薬局は今でも営業しており、そこには昔ながらの処方で調剤した薬 が並び、観光客にも人気です。その場所は、ロマネスクの動物の飾りの柱頭が美しいフランシスコ修道院の回廊にあるバロックの教会の横です。中は、興味深い 物にあふれています。絵のように美しいルネサンス様式の広間、音楽の記録文書保管所、蔵書の多い図書館、金銀の芸術作品などです。ドゥブロヴニク大聖堂

-現在の形の聖母被昇天大聖堂は、18世紀の初頭からのものです。それ以前のロマネスク様式の大聖堂は、残された記録によると、丸屋根のあるとても豪華な 会堂で、多くの彫刻により飾られていたということです。語り継がれた話によれば、1192年、第三次十字軍遠征の帰路、ロックルム島の辺りで起きた船の難 破で生き延びた、イギリスのリチャード獅子心王の法納したお金も使われて建てられたということです。1981年の改修工事の際、これより先にここにあった 大聖堂の跡が見つかり、その建築の特徴により、6世紀から8世紀のものであることがわかりました。この発見により、ドゥブロヴニクの古代史が、新しく塗り 替えられました。7世紀には、町全体が都市として完成していたと証明されたのです。この大聖堂には、今日、絵画のほかにも聖宝が保存されている、豊かな宝 物庫があり、また後陣には、ティツィアーノ・ヴェッチェリオによる1552年の複数折りの絵画作品、「聖母被昇天」があります。

聖ドミニコ教会は、クロアチアのアドリア海沿岸地方で最大のゴシック建築物の一つです。本堂一つの単純な設計で、ゴシックの後陣へは、教会内部から三つの 高いアーチでつながっています。主祭壇の上には、中央のアーチの中に、パオロ・ヴェネツィアーノの1343年の作品で、芸術価値のとても高い大きなキリス トの貼り付けがあります。ドミニコ会修道院には、15、16世紀のドゥブロヴニク絵画学校の名匠、ボジダレヴィッチ、ハムジッチ、ドブリチェヴィッチの作 品や、ドゥブロヴニクの守護聖人、聖ヴラホ、聖マリア・マグダレナ、天使ラファエロを描いたティツィアーノ作品もあります。ガラスケースには、ドミニコ会 の規律を書いた価値ある記録文書、1500年以前の印刷本、写本、11世紀の聖書、そしてドゥブロヴニクの金細工師による飾りの収集などが展示されていま す。

5.広場

旧市街の道やストラドゥンを歩けば、必ず着きます・・

ドゥブロヴニクにたくさんある広場のどれかに出るのです。マリン・ドルジッチ広場は、大聖堂の前にあり、そこからは、カルメン地区、港、そして水族館に行 けます。ドゥブロヴニクの人々は、昔、ここを“聖母の前”と呼んでいました。ここには、ドゥブロヴニク大聖堂、ソルコチェヴィッチ宮殿、聖バルトゥル教 会、ドゥルチッチ、マスレ、プリティケのギャラリーがあります。また、1996年4月3日、聖イワン山でのアメリカの航空機事故で命を落とした、アメリカ 商務長官ロナルド・ブラウンの記念の部屋もあります。この広場の名前は、劇作家、作家、詩人、教会のオルガン奏者、また政府打倒の陰謀者であるマリン・ド ルジッチ・ヴィドラ(1508年ドゥブロヴニク生まれ、1567年ヴェネチア死去)の名前をとってつけられました。ドゥブロヴニクとイタリアで教育を受 け、1541年、シエナで大学副総長に選ばれた人物です。ドルジッチは、1566年フィレンツェに滞在中、ドゥブロヴニクの政府を廃止し、一般市民でも統 治できるシステムを導入するため、コジモ・デ・メディチに支援を求めました。彼の作品はいつも愛、若さへの渇望、貪欲など、一般の人間的なテーマから始 まっていました。人生の状況の変化によって、それは生き生きしました。最も有名な作品に、Tirena、 Grižula、 Veneraと Adonis、 Novela od Stanca、 Skup、 Hekubaそして Dundo Marojeがあります。Dundo Marojeの喜劇では、その当時の人の性質、貪欲を表現することにより、善悪のない平等の社会に想像力を与えました。グンドゥリッチ広場には、詩人イワ ン・グンドゥリッチ(1589年-1638年、ドゥブロヴニク生まれ、死去)の像が立っています。彼は、生まれ故郷で教育を受け、コナヴレ地方の総督に二 回選ばれ、元老院と小評議会の議員や、ボスニアのパシャへの使節にも選ばれています。ドゥブロヴニクにおいて最も重要なバロック様式の芸術家で、その作品 は、カトリック精神の復興を思わせます。主題は、人生のはかなさの認識、すなわち生と死の認識です。代表作として、「贅沢な息子の涙」(ヴェネチア、 1622年)、「ドゥブラヴカ」(1628年ドゥブロヴニクで上演)、「オスマン」(1826年になって初めて出版)があります。彼は、フランシスコ修道 院に埋葬されており、また、この修道院の図書館には、「オスマン」の1652年の最も古い版と、ドゥブロヴニクで1826年に出版された版が保存されてい ます。1667年の大地震のあとにできたこの広場には、19世紀のグンドゥリッチの像とともに、1991年、紛争で損傷を受けた、小さなアメルリングの噴 水があります。広場では、近くの村々の住民が自分の生産した野菜を売る、市場が開かれます。グンドゥリッチ広場の南側には、バロックの階段があり、それを 昇れば、ルジェル・ボシュコヴィッチ広場に出ます。ここには、イエズス会聖イグナチオ教会と有名なイエズス会の学校Collegium Ragusinumがあります。この辺りは、ダルマチア地方で、最もバロック的な雰囲気のある場所です。聖イグナチオ教会は、イエズス会の有名な建築家、 イグナツィオ・ポッツォの設計により、1725年に完成しました。

教会の主祭壇には、イエズス会の創立者、聖イグナチオの生涯のいくつかの場面をガエターノ・ガルシアが描いた、幻想的なバロックのフレスコ画があります。 教会のファサードの角の下に付くように立っているイエズス会神学校の建物は、その曖昧な線としっかりした線でバロック様式の教会のファサードと、町に向 かって広がる階段を引き立てています。バロックの階段で素晴らしい成功を収めたのは、ローマの建築家、ピエトロ・パサラックアです。1738年、建築とし ての研究が重ねられ、空間の効果を発揮させることに成功したこの階段は、スパニャ広場からトリニータ・ディ・モンティ教会まで行くローマの有名な階段を思 い起こさせます。

6.ロックルム島

ロックルム島は、ベネディクト派の寺院と修道院が建設された場所として、1023年、初めて記録に登場します。

伝説によると、リチャード獅子心王が、十字軍の遠征によるパレスチナからの帰途、1192年船が難破し、ロックルム島で救われたということです。もし助か れば、その場所に教会を建てる、という誓いは、ある意味かなえられました。ドゥブロヴニクの住民たちの願いにより、町の中心にある大聖堂の建築を続行する ために寄付をしたのです。
ロックルム島には、1839年、ハプスブルグ家のマクシミリアンが滞在し、島を購入しました。修道院跡に別荘を建て、素晴らしい庭と小道、遊歩道をつくら せました。修道院の時代からマクシミリアンの時代を越え今日まで、造園と異国植物の植樹の伝統は続き、1959年、植物園の創立となりました。
植物園の植物の大多数は、オーストラリアや南米からのもので、特に興味深いのは、ユーカリやサボテン、多肉植物です。ロックルム島は、1963年、自然保護地区に、また1976年には森林植物特別保護地区に指定されました。
この島には「死んでいる海」と呼ばれる、海とつながった湖があり、子どもたちや泳がない海水浴客に適しています。
また、坂を昇った小高い場所に、1806年、フランス人の建設した星型の砦「フォート・ロイヤル」があり、そこからは、ドゥブロヴニク、ツァヴタット、そ して島々の素晴らしい景色が広がります。ドゥブロヴニクの町の港から小舟に乗って10分足らずの所にあるこの島は、町の周辺では人気の場所で、恋人達の島 とも呼ばれています。

7.トルステノ

ドゥブロヴニクの東20キロほどのところにあるこの町の名前は、クロアチアの言葉「トルスティク(アシが茂る所)」からきています。

水が豊富なため、アシが茂っているのです。そこの広場には、400年以上の老木、鈴懸の木が二本あり、この種類では、ヨーロッパ最大です。この小さな町で 最も興味深いのは、トルステノ植物園です。ここは、価値ある文化と自然の遺産を一つにした、クロアチアのアドリア海沿岸では珍しい植物園です。古くからの 庭園として、地中海や異国情緒のある植物の収集でも名の知られたこの植物園は、ドゥブロヴニクの貴族グチェティッチ・ゴッツェ家の郊外の所有地に、 1948年に創立され、庭園建築の記念建造物として保護されています。総面積25ヘクタールの敷地は、いくつかの部分で成り立っています。別荘のある歴史 的ルネサンス庭園、19世紀、20世紀の歴史的ネオロマネスク庭園、歴史的オリーブ畑、ヒマラヤウラジロガシ(樫の木)の森の自然植物の地域、アルプス松 と糸杉、灌木の深い森と沿岸部の岩、というふうに。ルネサンス時代の1494年、イワン・グチェティッチ・ゴッツェは、郊外の所有地に庭園つき別荘を建 て、別荘と庭園が瞬く間に、ドゥブロヴニクの人間的文化的生活の中心地となりました。この幸福の場所で多くの詩人が生まれ、ここを愛しました。その中に は、ルネサンス時代クロアチアで最も美しかった女性、ドゥブロヴニクの詩人、ツヴィエタ・ズゾリッチもいます。水は、ルネサンスのトルステノ植物園で最も 魅力的なものの一つでした。庭園の噴水の水は、14のアーチをもつ70メートルの長さの水道橋で運ばれました。最初のルネサンスの噴水は、1736年、豪 華なバロックの妖精の穴の前で、いくつかの石像の真ん中に立つ、海と水の神、ネプトゥーヌスとともに設置されました。

8. エラフィティ諸島

エラフィティ諸島は、昔、ドゥブロヴニク市およびドゥブロヴニク共和国に属していました。

ドゥブロヴニクへの帰属は、11世紀からのことだと言われていまが、1272年には、コロチェップ島、ロプド島、シパン島の総督が選ばれてもいます。これ らの島にあるイリリア人の遺跡や、ギリシャ、ローマの地名により、とても古い時代から人が住み始めていたことがわかります。海に対する知識と航海技術によ り、エラフィティ諸島の生活条件は改善していき、15,16世紀のドゥブロヴニク黄金時代には、とても繁栄しました。エラフィティ諸島の13ある島のう ち、人が住んでいるのは、コロチェップ島、ロプド島、シパン島のみです。ドゥブロヴニク滞在中に、古い汽船ポスティーラに乗って、これらの島へ是非出かけ てみてください。三島は一日で見て回ることができ、コロチェップ島の古代クロアチアの小さな教会を回ったり、ロパド島のシュニ海岸の砂浜で海水浴をした り、シパン島では、スジュラジュにあるスコチブハ・スティエポヴィッチ家の別荘をのぞいてみたり、総督の城の近くにあるオリーブ畑やブドウ畑の肥沃な土 地、そしてシパン港にある聖スティエパン教会などの散策をしたりできます。また、これらの島での食の楽しみは、特別なものです。青く透き通った海から漁師 が新鮮な魚をもたらし、有機栽培の野菜の味を自家製のオリーブ油が引き立ててくれます。ロパド島では、芸術家のパヴィリオン「Your Black Horizon」を訪ねるのもいいでしょう。これにより、この島は、現代美術と夏の楽しみを満喫したい人々の避けがたい、世界の美術観光の目的地に仲間入 りしました。世界的に有名な現代美術の収集家、フランチェスカ・フォン・ハブスブルクの主宰する国際財団Thyssen-Bornemisza Art Contemporary (T-B A21)により設立された、芸術家のパヴィリオン「Your Black Horizon」は、デンマーク系アイスランド人の芸術家オラファー・エリアソンとロンドンの建築家デイヴィット・アジャイの共同作品で、美術と建築を一 つにまとめ、何よりも、この場所とその周辺の環境への適合を配慮した点が特徴です。

9.スルジ山 - パノラマと博物館

スルジは、ドゥブロヴニクの北側にそびえる山です。

高さ413メートルのスルジ山の頂上には、1810年、ナポレオンの占領下で戦略上の要地として建てられた要塞インペリアルがあります。そこからフランス 軍は、周辺の海と後背地を監視していました。クロアチア紛争の際、この要塞は、ドゥブロヴニクを周囲から守る最初の防御の壁としての重要な役割を果たしま した。 要塞の近くには、大きな石の十字架が立っています。これは、1933年、ブラッチ・クロアチア大司教管区からドゥブロヴニクに献呈された、有名なブラッチ 島の石により、建造されています。この最初の十字架は、紛争で損傷を受けたため、紛争後、再びブラッチ・クロアチア大司教管区によって贈られた、新しい十 字架が立てられました。スルジ山の頂上からは、ドゥブロヴニクとその周辺地域の素晴らしい景色が広がり、写真撮影をするのに人気の場所です。要塞インペリ アルには、紛争の間、町の攻撃に使用された様々な武器や砲弾、そして紛争中のドゥブロヴニクとその被害を映したビデオや記録文書が展示されています。

10.港とラザレッティ

ドゥブロヴニクは、昔、隊商の道の交差点でした。

ペストの感染の危険が大きかったため、ドゥブロヴニクでは、隔離のための避病院が建設されました。1377年のドゥブロヴニクの法令集Liber viridisに、「ペストが流行している地域から来訪する者は、ドゥブロヴニクとその周辺地域へ入ることを禁じる」という法規があり、ペストが流行して いる地域やその可能性のある地域からの来訪者は、ツァヴタットやムルカン島、ボバラ島、聖ペタル島にある特別な場所に40日間滞在しなければならない、と 規定しています。それに伴い、ドゥブロヴニク共和国で初めての避病院が設立されました。商人、特に、ペストが流行している地域からやってきた者、船乗り、 感染者と感染の可能性のある者は全員、町に入る前、隔離されなければなりませんでした。ドゥブロヴニク共和国のペストからの保護対策の歴史は、この避病院 の歴史でした。最後に建てられた避病院は、町の東門のポロッチェにあります。1642年に完成したこの建物は、5つの堂から成っています。どの堂にも階段 を使って入るようになっており、それらの堂のまえの廊下は、どの堂からも入れる広い共同の部屋につながっていました。専用の水のタンクがあり、政府は聖職 者、医者、理髪外科医を送り、充分な数の使用人をおきました。避病院の規則はとても厳しく、厳格に従わなければなりませんでした。避病院はよく保存され、 現在それぞれの堂は、様々な美術工芸の工房や、民族舞踊団リンジョや若い芸術家協会の舞台などに使われています。

パスコイェ・ミリチェヴィッチ(1440年頃の生まれ)は、地方自治団体の技術者でした。港の入口の低い聖ルカ要塞の建設や、ドゥブロヴニク港のその他の 建設工事により、大きな成功を収めました。評議会に宛てられた二つの申し出の一つにより、ミリチェヴィッチは港の整備を始めました。防波堤カシェの建設に より、港は大きな波ばかりでなく、敵からも保護されました。それまでの港は、聖イワン要塞から聖ルカ要塞までの鎖で守られていました。ミリチェヴィッチ は、ユーライ・ダルマティナッツのプロジェクトにより建設された、ポンタの新しい門の整備もしています。ミリチェヴィッチの港の整備は、16世紀の初頭に 終わりました。オーストリアの統治する19世紀、魚の市場が建設され、海辺の遊歩道、防波堤ポルポレラが整備されています。港にあった大小の船舶修理工場 は、現在のレストラン、アルセナルとポクリサルです。
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